『テクノドローム』 濱瀬元彦によるノート

 集合的,非人称的(匿名的)なハウス・ミュージックの製造者が強烈なビートとベースの音響を中心に据えることで,無方法だが調性の枠組みを越えようとしていったこと,かつてノイズと楽音との境界を無化しようとしたジョン・ケージの作品となんら変わらない音楽空間をアンビエント系ハウスが実現し,これを知的な上昇としてではなくファッションや格好のよさとして無数の人々が消費していったことに数年前,私は感慨をおぼえた.しかし,この現象は触媒としてドラッグが極めて大きな役割を持っていた.ハウス・ミュージックはマス化とパターン化を同時に果たし,ドラッグの作用を最初から当て込んだ甘さを露呈し始めた.こうしたハウス・ミュージックの隆盛と堕落の過程で私はそれらにしばしば触発された.私はハウス・ミュージックの示した傾向が単なる流行やファッションのみではなく音イメージに対する本質的に重要な変化の象徴であると感じたのだ.そして,この変化の兆候をずっと以前から意識的に追及して来た人たち,ブライアン・イーノとジョン・ハッセルの二作品を昨年初秋,耳することになった.ブライアン・イーノの『Nerve Net』('92) は作品化されたハウス・ミュージックとして最も優れた例であった.またジョン・ハッセルの『CITY: works of fiction』('90) は都市音楽そのものに対する徹底性のある表現となっており,近年の最も高度な音楽的達成と断言できる.同時に,この二作品にはここ十年来,私が行なって来た音楽的試みとの著しい共通性を感じた.ところで私は昨年春に次の作品集として室内楽曲集を企画し,その作曲と人的な手配を進めていた(このCDの八曲目に収めた「Lattice for saxophone quartet」は企画の発端となった作品である).しかし,この二作品に対して緊急に自分なりの見解(作品)を示す必要を感じ,『テクノドローム』の制作へと急拠,変更することとなった.
 『テクノドローム』ではこれまでにないことをいくつか試みた.具体的には低音域に新しい手法をほどこしたこと,録音に一人称性を確保するために演奏,録音エンジニアリング,トラックダウンのすべてを私一人でやっていること(Digidesign Pro Tools systemを用いコンピュータ内部で録音,編集,ミックス,トラックダウンのすべてを行なった),ベースのインプロヴィゼーションを単なる「語り」や「歌」としてでなく,反復のイメージ更新のための情景や,意識の緒形態として配置していることなどである.ここで私はインプロヴィゼーション=実存という古い信仰を解体しようとしているのだ.
 形式的には『テクノドローム』では展開や転換を持たない構造,極端に短い章句の反復による構成,それらによる強い拘束力を持つ時間の実現などが意図されている.実はこの技法上の意図は前作『樹木の音階』となんら変わっていない.しかし『樹木の音階』が生命の触手や親和への意識を幻聴のレベルで表現しようとしたものだとすれば『テクノドローム』は現在の都市の街区から得られる倒像,錯視,既視感をハウス・ミュージックの本質的な部分が到達したざらついた触覚で表現しようとする意図を持っている.それは同時に暗喩としての胎内時間の再生の試みでもある.
3/10/93